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第二話 柔らかな足音、千年たっても変わらないこと、人間なんてみんなどこかおかしい。——雪野

言の葉の庭:

 柔らかな足音に顔を上げると、ビニール傘を差した少年が立っていた。


 一瞬だけ目が合ってしまった。誰かがこんなに近づくまで気づかなかったなんてと、雪野は不思議に思いながら目を伏せる。雨の音を聴いていたからかな。


 雪野が雨宿りをしていたその小さな東屋に、少年はためらいがちに入ってくる。こんな平日の朝に公園に来るなんて珍しい。制服を着た一見真面目そうな——高校生、だろうか。こんな学校をサボった先が有料の日本庭園だなんてなかなか渋いかも。場所を空けるために立ち上がって東屋の奥に移動する。少年は律儀に頭を下げ、傘を閉じ端に座る。ギィ、と木造りのベンチがかすかな音を立てる。


 五月の強い雨がまっすぐに降っている。気持ちよさそうに鳴いている涼しげな鳥の声と、屋根を叩く雨音と軒先からの雨だれと、さらさらさら、という鉛筆がノートを滑るかすかで優しげな音と。少年がさっきからノートになにかを書いているのだ。教科書を広げているわけじゃないから勉強じゃないだろうけど——とにかく音楽を聴き出したりするような子じゃなくて良かったと、雪野はなんとなくホッとしている。二メートル四方ほどしかないL字型の狭いベンチ、その端に二人でいても不思議と気に障らず、別にいいや、という気持ちで飲みかけの缶ビールを口に運ぶ。飲酒禁止の公園だけど、まあ、別に。たぶんこの子は気にしないだろう。お互いにサボりだし。


 突然、あ、という小さな声を出して少年が消しゴムを落とし、それはバウンドして雪野の足元に転がる。


 「どうぞ」拾った消しゴムを少年に差し出すと、


 「ああ、すみません!」少年は慌てて腰を浮かして受け取る。


 焦った声が十代の若さでなんだか好ましい。思わず笑顔になってしまう。


 少年は再びノートになにやら書きつける作業に入り、雪野はずいぶん久しぶりに弾んだ気持ちになりつつある自分に気づく。こんなことで。これほどどうしようもない毎日g続いているのに。へんなの、とビールを口に含み、あらためて雨の庭園を眺める。


 さっきから雨はずっと変わらぬ強さで降り続いている。いろいろな形の松の木をじっと見ていると、それらが巨大な野菜とか未知の動物のシルエットみたいに見えてくる。灰色一色の空は、誰かが東京にぴったりと蓋をしたみたい。池に次々と広がる波紋はひっきりなしのお喋りのよう。屋根を叩く雨音は下手くそな木琴みたい、リズムが取れそうで取れなくて。——そう、私もそう。私には本当にリズム感がない。お母さんはピアノを弾く人だったし歌も上手だったのに、私がひどく音楽が苦手なのはなぜだろう。子供の頃は自分以外のクラスの全員が、見とれるくらい滑らかに木琴を叩いていた。リコーダーの指使いも魔法みたいだった。そういえば世の中の誰も彼も、なぜあんなにカラオケが上手なんだろう。どうしてみんなあんなにたくさんの曲を知っていて、あんなふうに躊躇せずにぐんぐんと歌えるんだろう。カラオケなんて学校で習いもしなければ教習所もないのに。もしかしてみんな密かに一人で自主練でもしているんだろうか。あの人にも時々カラオケに連れていかれたけれど——


 「あの」


 唐突に少年に声をかけられて、へ、という間抜けな息が出てしまった。


 「どこかで、お会いしましたっけ」


 「え?・・・・・・いいえ」なになに急に、この子こんなカオしてもしかしてナンパ?思わず硬い声を出してしまう。


 「ああ、すみません。人違いです」


 気まずいような声でそう言って少年は恥ずかしそうにうつむく。その様子を見て雪野は安心する。いいえ、と今度は笑みを含んだ優しい声が出た。本気で誰かと間違えたんだ。


 もう一口ビールを飲む。遠くで雷が小さく柔らかく響く。なんとなく導かれるようにして、缶を口につけたまま雪野は少年をちらりと盗み見る。


 短く刈った髪、利発そうな額にちょっと頑固そうな眉と目。さっきのやりとりが恥ずかしかったのか、頬がまだちょっと赤い。耳から首筋にかけての薄い肉付きが妙に大人っぽい。ほっそりした体に眩しいくらいの白いYシャツとグレイのベスト・・・・・・。——あれ、と雪野は思う。


 ちょっと驚いて、え、と小さく息が漏れる。そうか、なるほどね。水面に水彩絵の具を落としたみたいに、カラフルないたずら心が広がってくる。


 「——会ってるかも」


 「え?」


 驚いて少年が雪野を見る。間を埋めるかのように遠雷が再び響く。鳴る神、という文字がふわりと頭に浮かぶ。微笑しながら呟くように雪野は言う。


 「・・・・・・なるかみの」


 傘と鞄を手に取りながら立ち上がる。少年を見下ろす形になる。


 すこしとよみて さしくもり あめもふらんか きみをとどめん




 言い終わらぬうちに歩き出した。傘を差しながら東屋を出て、雨の中に足を踏みだす。とたん、傘が全天のスピーカーとなって雨音を耳に運ぶ。少年のぽかんとした視線を背中に感じながら、構わず歩く。あの子、これで気づいてくれたかな。くすくすと考えながら小さな石橋を渡って、庭園の出口に向かう。木立にさえぎられて、私の姿はもう彼には見えなくなっているだろう。今日はなんだか楽しかったな——そう雪野は考える。そう考えながらも、ああ、でも一日はまだ始まったばかりなんだ、とすとんと思い至る。鮮やかだった気持ちが、再びじわじわと灰色のなかに沈んでいく。




                          ☂ ☂ ☂




 それは雪野が中学生の時、古典の授業中の出来事だった。


 和歌の紹介として、万葉、古今、新古今からそれぞれ一首ずつが教科書に載っていた。そのうちの万葉の一首が、理由も分からぬまま十三歳の雪野の目を吸い寄せた。


 


 ひむがしの 野にかげろひの立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ




 歌の意味を考えるより先に教科書の黒い活字が溶けて、草原のかなたに紫色の朝焼けが浮かんだ。その風景の中でもくるりと反対を向くと、群青の空の山際に、描き足たような白い月がぽつんとかかっている。文字からこんなにくっきりと情景が浮かぶなんて雪野には初めての経験で、いったいなにごと!と呆然としていると、


 「それはきっと、こんな眺めやったんかもしれんね」


 と優しい声で陽菜子先生がそう言って、チョークを手に黒板に楽しそうに絵を描き始めた。馬に乗った男の小さなシルエット。それを取り囲むようにして、ピンク、黄色、水色、青を重ねたグラデーションの空。最後に白のチョークで小さな月を描き足す。ぞくり、と雪野の全身に鳥肌が立った。私が見たのと同じ風景!




 放課後の美術室でそのことを陽菜子先生に話すと、彼女は少女のような声をあげてはしゃいでくれた。


 「えええ、ウソ!それってすごい、人麻呂が私たちに同時に憑依したんかもねえ!」


 「げ——、オカルト」と美術部の男子生徒。「陽菜子先生がアブばいのは知っとったけど、ゆきのんもそっち系?」とからかうように女子生徒。


 「違う違う、びっくりしたってだけの話よお」と思わず唇を尖らせて雪野は言う。雪野の表情にその場の全員が見とれ、一瞬後敵意のような気配がかすかに立ち上がる。ああ、また、と雪野が絶望的に思ったその直後に、陽菜子先生の教師らしく整えた声が差し込まれる。


 「千年たっても人間の心は変わらんわいねえ。古典って素敵じゃろ?」


 まあそうかも、とか、でもちょっと難しいわい、とか生徒たちは答え、陽菜子先生はふふふ、と優しく笑う。その場は和やかに回る。窓からの低い夕日が、陽菜子先生のふっくらとした輪郭と、制服姿の生徒たちの姿を絵画のように浮き上がらせている。ホッとする心持ちで、その通りだと雪野は思う。また私を助けてくれた上に、そんなふうに言える陽菜子先生は本当にホントにほんとうに素敵。世界と自分との間の空白にまたひとつ、カチン、という音を立てて歯車が差し込まれたような気がする。陽菜子先生のおかげで、私はすごく救われている。


(7.24)


 愛媛での子供時代を通じて、雪野は周囲の誰よりも美しい少女であり、そしてその美しさは彼女をおおむね不幸にしていた。


 非現実的なくらい、異様なくらい、雪野は美しかった。山と海と田んぼとみかん畑に囲まれた小さな町の中で、どこにいても彼女は嫌というほど目についた。誰かとすれ違うたびに皆が例外なく驚いた顔で雪野を見つめ、そのたびに雪野の心は傷ついた。自分はそんなに奇妙な顔をしているのだろうかと、幼い彼女は真剣に悩んだ。


 過疎化の進む小学校の中で、雪野の苦悩はなおさら深刻だった。頭はクラスメイトと並ぶと不自然なほど小さく華奢で、手足は折れそうに細く長く白く、顔は作りものめいた精巧さで、二重の誰よりも大きな瞳は黒く神秘的に濡れていて、思慮深い長い睫毛には鉛筆だって乗りそうだった。おどおどと怯えたような態度は、幼さとは釣り合わぬ異様な色気となって逆に雪野を目立たせた。灰色の海原に浮かぶ真っ白な帆船みたいに、誰の目にも明らかな眩しい光のようなものを——彼女自身はちっとも望まなかったにもかかわらず、雪野は放っていた。


 雪野がいると、とにかくその場の空気が変わるのだ。男子はどことなく落ちつかなくなるし、女子たちはそのせいで機嫌が悪くなる。雪野は消しゴムをかけていても給食を配膳していても牛乳を飲んでいても解答を間違えても凄まじく絵になるから、教師は皆無意識のうちに彼女に頻繁に声をかけたし、そのことが彼女をさらに周囲から孤立させた。その上、常に緊張もしていたせいかあまり器用ではなく、体育や音楽は苦手だった。平均台さえまっすぐ歩けなかったし、カスタネットでっさえ上手に叩けない。そういう他の子供であれば誰も気にしないような失敗も、雪野がすると全員の印象にどうしようもなく刻まれるのだ。そして異物を排する正当な理由を得たとでもいうように、子供たちは皆堂々とひそひそと囁くのだ。あの子、ちいとおかしいよねと。すこしでも目につかぬよう、息を潜めるようにして雪野は生きた。


 だから中学生になって初めて陽菜子先生に会った時から、雪野は彼女が羨ましくて仕方なかった。彼女は二十代半ばの国語教師で、雪野にないものをすべて持っていた。鋭さとは無縁のふくよかな優しい顔も、思わず抱きつきたくなるような柔らかく丸みを帯びた体つきも、誰のことも緊張させない穏やかな物腰も。小川先生ではなく皆が自然に陽菜子先生と呼んでしまう、その素朴で親密な存在感も。


 先生は世界とぴったりくっついている、と雪野は思った。自分の容姿は私を世界から遠ざけるけれど、陽菜子先生の丸い顔は世界の祝福そのもの。先生のような姿に生まれたかったと何度も願った。朝起きると陽菜子先生の姿になっている自分を、ばからしいくらいの真剣さで夜な夜な雪野は想像した。


 そして驚くべきことに、陽菜子先生は自分の非現実ささえもごく自然に薄めてくれるらしいことに、雪野はやがて気づく。雪野が場の空気を変えてしまいそうになると、陽菜子先生はいつも巧みにそれを抑えてくれるのだ。意識してか無意識か、とにかく雪野に視線が集まりそうになるとまるでそっとたしなめるみたいに自然に言葉を差し込んで、皆の関心を逸らしてくれる。さらにそのことによって、クラスメイトたちも徐々に雪野の特別さへの接し方を学んていってくれているようですらあった。


 陽菜子先生が担任だったら、と雪野は三年間願い続けそれは結局叶わなかったが、そのかわりに彼女が顧問を務める美術部に入り、そこでの時間は大袈裟ではなく雪野にとって救いとなった。ほんとど初めて、学校という場所が苦痛ではなくなった。不格好なジャンパースカートの制服に包まれた垢抜けない女子生徒たちの中で一人、それさえもまるで友人たちと話す喜びをその場所で初めて知ったのだった。そしてそのすべてが陽菜子先生のおかげだった。


 切なく焦がれるような——ほとんど恋に近いくらいの泣き出しそうな感情で、雪野は陽菜子先生に憧れ続けた。


 高校生になると、雪野の美しさはまたすこし世界に馴染む。膨らんだ胸を包むモカ色のブレザーと茜色のリボン、細いももがのぞくくらいの丈のタータンチェックのプリーツスカート、そういう洒落た制服に身を包んだ雪野はもちろん飛び抜けた美少女でその姿はまるでテレビの中のアイドルのようだったが、そういう役割のようなものを帯びることで彼女の美しさはようやく落ちつき先を見つけたのだ。「すげえ美人がおるらしいぜ」と家から自転車と汽車とさらにもう一台自転車を乗り継いで通う進学校では噂にはなったが、その美しさは単に異質なだけでありもう異常ではなかった。カチン、歯車がまたひとつはまる。息がまたすこしだけ楽になる。




 「ゆきのん、久しぶりに会うたけどだいぶ人間らしくなったよね」


 そんなふうに中学時代の部活仲間から言われたのは、二年ぶりに集まった母校の美術室でのことだった。陽菜子先生の転勤がきまったからということで、美術部が卒業生も含めてのお別れパーティーを週末に催したのだ。その日は朝から雨で、古びた建物ではヒーターが点いていても吐く息はうっすら白く、しかし集まった三十人ほどの生徒たちの熱気で冷たいコーラでも喉に心地好いくらいの賑やかな集まりだった。


 「なんなんそれ——!?前は人間に見えんかったってこと?」なるべく茶化すような調子で雪野はそう訊く。


 「うん、同じ生き物には見えんかった」


 真剣に答える卒業生の表情を冗談と捉えたのか、現役の美術部生徒たちが笑い声を上げ、あんたたちでもこれマジなんやけんね!と他の卒業生が大真面目に主張している。人間じゃないってなんぞやそれ、とおかしそうに言う中学男子はさっきから頬を上気させて雪野をちらちら見ているけれど、かつてのようなぎこちない空気はもう流れない。陽菜子先生は雪野の隣で眩しそうに目を細め、


 「でも本当。雪野さん、プールから上がったみたいなすっきりした表情しとるよ」と言う。


 ああ、この人はやっぱりなんでも分かってるんだと、甘やかに雪野は思う。


 いつの間にか窓の外はすっかり暗くなっている。水滴の張りついたガラス窓は暗闇を背に鏡となって、蛍光灯に淡く照らされた美術室を映し出している。中学生たちは数組に分かれてだんだんと帰宅をしていて、その場に残ったのは五人ほどの卒業生と陽菜子先生だけだ。先生の後ろに生徒たちからのプレゼントの箱が積まれていて、本当に転勤しちゃうんだ、とそれを見て雪野は今さらのように思う。


 なんかあったらいつでも来てかまんけん。卒業式の日に陽菜子先生が美術部員たちに贈った言葉を、雪野はまるで自分だけに向けられた特別なメッセージのように今でも胸にしまっている。実際に高校に入ってからも口実を作っては一人で何度も中学校に顔を出した。「転勤って言うてもそんあに遠くに行くわけじゃないんやけん、また会えるよ」と陽菜子先生は言うけれど、今までのようにはきっといかない。生徒たちと笑いあっている陽菜子先生の姿をちらりと盗み見る。蛍光灯のせいか、先生はなんだか色褪せて疲れているように見える。ちょっと心配だなと思いながら雪野は考える。今はずいぶんマシになったの後も、まるで親鳥を探す雛のように陽菜子先生の姿を求めていた。許されるならば先生のアパートまでついて帰りたいくらいだった。高校で私のあとをこっそりつけてくるような男の子たちの気持ちが私には痛いくらいはっきりと分かる。重みを増して流れ落ちていく窓ガラスの雨粒を眺めながら雪野は思う。自分の気持ちだけがどんどん重くなっていくのは、とても、とてもつらい。


 ——雨の言葉っていう詩があるんよ。


 雪野が物思いから顔を上げると、陽菜子先生は雪野を見てにっこりと微笑んだ。それからゆっくりと生徒たちに公平に目をやる。


 「私の好きな詩なんよ。雨のたびに思い出すんよ、『雨の言葉』っていう詩」


 そう言って陽菜子先生はすこし目を伏せ、諳んじる。




   わたしがすこし冷えているのは


   糠雨のなかにたったひとりで


   歩きまわっていたせいだ


   わたしの掌は 額は 湿ったまま


   いつかしらわたしは暗くなり


   ここにこうして凭れていると


   あかりのつくのが待たれます


 


 ふくよかな唇からするすると紡がれる言葉を、いつの間にか馬鹿みたいに口を開けて雪野は聞いている。「そとはまだ音もないかすかな雨が」と声は続き、雪野のまぶたには見たこともない都会に降り続ける細い雨の風景が浮かぶ。大好きな陽菜子先生の声が、しかしなぜかずっと未来の不安な預言のように雪野の心身をそっと震わせる。




   知らなかったし望みもしなかった


   一日のことをわたしに教えながら


   雨のかすかなつぶやきは こうして


   不意にいろいろとかわります


   わたしはそれを聞きながら


   いつかいつものように眠ります




                          ☂ ☂ ☂




 目覚ましがなっている。


 目をつむったまま携帯を掴みアラームを止める。もう朝なのか、と信じられないような気持ちで目を薄く開くとずきりと頭が痛む。体内の血管にまだ昨夜のアルコールが充満しているような気がする。でもとにかく起きなくちゃ。ベッドから立ち上がると胃痛と貧血でさっそく倒れそうになる。カロリーが必要なんだ、と足元から板チョコを拾い、ベッドに腰掛けながら銀紙を剥がしやけくそのように二口かじる。六時四分。そこでようやく窓の外の雨に、雪野は気づく。


 ・・・・・・雨のかすかなつぶやきは。知らなかったし望みもしなかった一日のことを。


 そう、と雪野は思う。本当に、毎日。そんな日ばかりだ。


 部屋を出て、ゴトゴトと音を立てる古いエレベーターに乗る。三階でスーツ姿の中年男性が「おはようございます!」と朝らしからぬテンションで乗り込んできて、雪野もなんとか微笑を作って挨拶をかえす。おはようございます。エレベーターのガラスに映った自分を無遠慮に眺める男の視線を、雪野はうつむいていてもくっきりと感じる。大丈夫、私は文句のつけようもなくちゃんとしている。焦げ茶色のタイトなジャケットの下はエンジ色のフリルブラウス、黒のフレアパンツに五センチのパンプス。整えられたショートボブの黒髪、適切なファンデーション、きちんと引いた薄い口紅。あなたのそのくたびれたスーツやあご髭の剃り残しや寝癖のついた髪のほうがよっぽど恥ずかしい。私は爪だって磨いているし、ストッキングの中の足も整えている。あの頃の、自分の容姿を持て余し絶望していた無力な子供ではもうない。


 車の行き交う雨の外苑西通り、その歩道を色とりどりの傘が一方向に黙々と歩いている。人波の足どりに遅れをとらぬように千駄ヶ谷駅に着き傘の雫を払う頃には、雪野はもうぐったりと疲れている。柱にもたれて座り込みたいのを懸命にこらえ、バッグから定期を出して自動改札をくぐり、泣き出したいような気持ちで必死に階段を昇りホームに辿り着き、電車を待つ列に並び、傘を杖にしてやっと安堵の溜息をつく。ようやく足を止めることができたかと思えばしかし、体を働かして血圧が上がったせいか今度は頭蓋骨の内側で金槌が振り回されているかのような激痛。こめかみには脂汗が浮き、それなのに手足の先は氷漬けされたように冷たい。両足の薄い筋肉が疲労ではち切れそうになっている。部屋から十分歩いてきただけでこんなに体が疲れ切っていることに、しみじみと情けなくなる。


 けへへへ、と聞こえる無遠慮な笑い声にぎくりとして目を向けると、短いスカートをはいた女子高生二人が楽しそうに話している。


 「マジでカルビ丼食べて来たの!?さっき?」


 「だって今日二限目体育じゃん!うちのママの貧相な朝食じゃ倒れるっての」


 「そういうモテないのじゃなくてさ、ほら、神社の脇にパニーニ屋できたじゃん、ああいうとこ行きなよなーせめて」


 仔猫が前足でちょっかいを出すように一言ずつに互いをぽんぽんと叩き、さらにその合間にスマートフォンを器用に操作しつつ、弾けるように笑っている。じゃあパニーニはモケるのかよ、とか、パンケーキの時代はもう終わったとか、そういう会話を聞きながら、彼女たちの発するエネルギーの強さに雪野はあらためて驚く。ただ駅のホームにいるだけでそんなに楽しいのかと愕然と思う。一番線、新宿方面行き電車が参りますと表情のない声でスピーカーが言う。そういういろいろが、ぎりぎりで張り詰めていた雪野の気力をぷつりと断つ。胃の奥から吐き気が込みあげてくる。


 


 新宿区と渋谷区にまたがる巨大な国定公園の中を傘を差して雪野は歩いている。


 結局電車には乗らなかった。乗れなかった。電車のドアが開くよりも前に雪野は駅のトイレに駆け込み、吐いた。胃がひっくり返るような苦しみにも関わらず吐瀉物はほとんどなく、どろりとした粘液だけが糸を引いた。涙で崩れた化粧をトイレの鏡で直しながら、やっぱり今日は乗れない、と絶望的に考える。しかしそう思い定めてしまうと罪悪感の混じった安堵がふわりと浮き上がってくる。駅を出て、歩いて五分ほどの距離にある公園の千駄ヶ谷門をくぐった。


 周囲の木々は雨をたっぷりと浴びて、この季節特有の内側から溢れるような緑に輝いている。暴力的な中央線の轟音も首都高速を走るトラックの騒音も、ここでは遠い囁きのように優しげに弱まっていて、なんだか守られているような安心を雪野は感じる。傘を叩く雨音を聞きながら歩いていると、さっきまでの疲労がゆっくりと流されていくような気がする。パンプスが泥い汚れるのも気にならず、むしろ湿った土を踏む感触が気持ちいい。芝生を抜け、台湾風の建物の脇、ちょっとした山道のような細い小径を通り、日本庭園に入る。今日もまだ誰も来ていない。ほっとしながら垂れ下がった楓をくぐり、小さな石橋を渡り、いつもの東屋に入り傘をたたむ。ベンチに腰を下ろしたところで、全身が酸欠のように重くじんわりと痺れていることに気づく。カロリーが必要なんだ。キオスクで買ってきた缶ビールを開け、ごくごくごく、と一気に飲み、は——っと深く長い息を吐く。全身からするすると力が抜け、心までグッチャリと崩れそうになる。理由も分からないうちに目尻に涙が滲む。まだ今日は始まったばかりなのだ。


 知らなかったし望みもしなかった一日のことを・・・・・・。


 小さく口に出して雪野は言う。




                          ☂ ☂ ☂




 美術室に最後まで残った卒業生たち数人でパーティーの後片付けをして、陽菜子先生と一緒に学校を出たのが六時頃だった。あたりはもうすっかり暗く冷え込んでいて、相変わらず雨が降り続いている。日中は陽気だったムードもその頃には別れの寂しさにすっかりとって代わられており、卒業生たちは涙ぐみながら陽菜子先生と別れを交わし、それぞれに帰宅していく。そのようにして、最後には家の方向が同じ雪野と陽菜子先生だけが二人、傘を並べて歩いていた。


 先生と二人だけとうい幸福とこれが最後かもしれないという心細さで、先ほどから雪野はなんいも喋れずにいる。陽菜子先生も、どうしてかいつになく黙り込んだまま歩いている。いつの間にか私の背は先生を追い越したんだなと雪野は気づき、そのことも先生が自分から離れていく理由であるような気がしてさらに悲しい気持ちになる。ふと、自分はきっとこれからもこういう悲しみを味わい続けていくのだろうと理由もなく思う。誰かと付き合ったことはまだないけれど、それはきっとこういう寂しさをたっぷりと含んだ出来事に違いないと、妙に確信を持って雪野は思う。


 「雪野さんのお家、線路の向かいがわよね」


 急に思い出したかのように、陽菜子先生が予讃線の方向に目を向けて言う。はい、となんだかドキドキしながら答えると、じゃあもうじきよね、と先生は言い、またしばらく沈黙が続く。先生のブーツの音と雪野のローファーの音が交互に響く。ガードレールの下にある溜池に黒い雨がまっすぐ吸い込まれていく。無言に耐えきれずもうなんでもいいからなにか言おうと雪野が口を開けた直後に、唐突に静かに、陽菜子先生が言う。


 「本当は転勤じゃないんよ。教師を辞めるんよ」


 「え」


 え?今なんて言ったんだろう。雪野は傘の下の陽菜子先生の顔を覗き込むが、真っ暗の影の中で表情は見えない。


 「教師を、辞めるんよ」さっきよりすこしだけ強く、陽菜子先生は繰り返す。


 「ごめんね、雪野さんにだけは言うとかんといかんって思ってたんよ」


 え、どういう意味?胸の中に疑問が反響する。陽菜子先生の言葉が上手く理解できない。ローファーの足だけが自動的に前に進む。悲しいのか嬉しいのか判別できない声色で、陽菜子先生は続ける。


 「先生、赤ちゃんができたんよ。じゃけん実家の近くに引っ越すことにしたんよ」


 なぜ、と雪野は思う。なぜ「結婚したの」ではないのか。「実家に行くの」ではないのか。転勤だなんていう嘘をつくのか。そんなことは簡単に分かるような気もし、全く理解できないような気もする。雪野はいきなり息苦しくなる。誰かに水の中に乱暴に頭を突っ込まれたかのように。そしてただただ感じるのは、見捨てられるという強い恐怖。見捨てられるのが雪野なのか陽菜子先生なのか、本当に誰かが誰かを見捨てたのか、それはぜんぜん分からないままに、しかし雪野は激しく混乱する。ほとんどパニックになる。


 ふふ、と陽菜子先生が笑った息を出す。いつだって雪野のピンチを救ってくれたあの柔らかな声で。どうして笑うの?雪野は驚き、もう一度先生を見る。


 「ぴっくりさせたかいねえ。確かにみんながあんまり望んでないことやったけんちょっと大変なんよ。でもね」


 そう言って今度は陽菜子先生が、傘の下から雪野の顔を覗き込む。田んぼのむこうを予讃線の三両列車が通過していて、その黄色い窓明かりが陽菜子先生の顔を柔らかく照らし出す。雪野を守り励まし続けてきた、大好きな優しい笑顔。胸の奥から熱い塊が湧き上がってくる。


 「大丈夫。どうせ人間なんて、みんなどっかちょっとおかしいんやけん」


 ——ああ。陽菜子先生。


 大丈夫ってなに?みんなおかしいってなに?歩きながら雪野は泣き出す。声だけは必死に押し殺して、でも涙はぼろぼろとアスファルトに落ちて雨に混じる。ブーツとローファーと雨の音が、いつまでも耳に残る。




                          ☂ ☂ ☂




まどろみを破ったのは聞いたことのある靴音で、雪野は顔を上げる前に誰が来たのかが自然に分かる。


 あの少年が、以前と同じようにビニール傘を差して立っていた。


 少年は戸惑ったようなすこし怒ったような表情をしていて、雪野は微笑ましい気持ちになる。


 「こんにちは」と自分から声をかける。


 「・・・・・・どうも」


 なんでまたいるんだよという声が聞こえてきそうな無愛想な返答。腰を下ろす少年を目の端で捉えながら、おかしな女だと思われているんだろうなと雪野は苦笑する。でもお互いさまじゃない。あなただってこんな場所でまた学校をサボって。


 雨が不器用に屋根を叩いている。少年は雪野を無視することに決めたようで、前回のようにノートになにかを書きつけている。美大でも目指しているのだろうか。まあなんでもいいやと、雪野も好きなようにビールを飲むことにする。一缶を飲み干し、別の銘柄のもう一缶を開けて口をつける。味の差がぜんぜん分からず、これだったら安い二本にすれば良かったと軽く後悔する。まいいや。どうせもとからたいした舌じゃないのだ。片足のパンプスを半分脱ぎ、つま先にひっかけてぶらぶらと揺らす。


 「ねえ」と少年に声をかけたのは、薄い酔いの大勢だったか退屈しのぎだったか。


 「学校はお休み?」ただこの子とは気が合いそうだと、新学期のクラスで友人を本能的に嗅ぎ分けるように雪野はなんとなく思っている。少年はお前に言われたくねえよという顔をし、


 「・・・・・・会社は、休みですか?」と憮然と言う。やっぱりなにも気づいてない。男の子ってばかだなー。


 「またサボっちゃった」


 そう答えると、少年はすこし驚いた顔をする。あなたは知らなかったかもしれないけれど、大人だってばんばんいろいろサボるのだ。少年の表情がふと和らぐ。


 「・・・・・・で、朝から公園でビールを飲んでる」


 見たままを解説されてしまい、お互いにくすりと笑った。


 「酒だけって、あんまり体に良くないですよ。なにか食べないと」


 「高校生が詳しいのね」


 「あ、俺じゃなくて、母が飲む人だから・・・・・・」


 慌てた言い訳。きっと飲んだことがあるんだろうな。可愛い。もうちょっとからかおうと雪野は決める。


 「あるよ、おつまみも」そう言ってバッグから大量のチョコレートを取り出して見せながら、「食べる?」と訊く。両手いっぱいにすくったチョコの箱がばらばらと音を立ててベンチに落ちる。うわ、と身を怯えます少年の、期待通りの反応に嬉しくなる。


 「ああー、いまヤバイ女だって思ったでしょう?」


 「え、いや・・・・・・」


 「いいの」


 そう、本当に別にいいの。雪野は初めて心底思う。


 「どうせ人間なんて、みんなどっかちょっとずつおかしいんだから」


 不思議そうな顔を少年はする。


 「・・・・・・そうかな?」


 「そうよ」


 彼をまっすぐに見ると、自然に口元が優しくなる。すると言葉をつなぐように風が吹き、新緑と雨粒が一斉に揺れる。ざわざわざわという囁きのような葉擦れに二人は囲まれて、その瞬間、突然に雪野は気づく。


 あの雨の夜。


 十年以上前の、陽菜子先生のあの言葉。


 先生はあの時ぜんぜん大丈夫なんかじゃなかったのだと、今になって初めて気づく。まるで心が乗りうつったかのように突然にくっきり分かる。必死に、ほどけそうになる心を必死に抱え込みながら、自分だけがおかしいわけじゃないと叫んでいた陽菜子先生の気持ちが目前にありありと浮かぶ。ずっと年下の高校生の少女に懸命にそう訴える、その姿がぴったりと隙間なく自分に重なる。


 ——先生、と許しを乞うように雪野は思う。私たちは皆気づかぬうちに病んでいる。でもどこに健全な大人がいるというのだろう。誰が私たちを選別できるというのどろう。自分が病んでいると知っているぶんだけ、私たちはずっとずっとまともだ。祈るように願うように、陽菜子先生に憧れ続けた少女の頃のあの必死さで、雪野はそう思う。




 「じゃあ、そろそろ行きます」


 立ち上がりながら少年が言う。雨は先ほどまでよりすこしだけ小降りになっている。


 「これから学校?」


 「さすがに、サボるのは雨の午前中だけにしようって決めてるんです」


 「ふうん」中途半端に真面目な子だと、なんだかおかしくなる。


 「じゃあ、また会うかもね」


 言うつもりもなかった言葉がふと唇からこぼれた。


 「もしかしたら。雨が降ったら」


 少年の不思議そうな表情を目にしながら、どうも私は本当にそう望んでいるらしいと人ごとのように雪野は思う。




 その日が関東の梅雨入りだったと、後になって彼女は知った。




                                引用詩:立原道造「雨の言葉」

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